@地域の概況と地域づくりのきっかけ
かつては「夜逃げの町」「人も住めない町」1)と言われた過疎の町・綾町は、現在では人口7千人の町に年間120万人2)が訪れる南九州観光のスポットとなった。 昭和40年代初頭から始められたまちづくりの歩みは、かつて農山村の伝統であった『結いの心』3)に焦点をあてて、着実に変貌の途をゆく。町の目指す途は、『照葉森林都市』『有機農業の町』『一戸一品運動の町』そして交流・集客を通じて地域の良さをアピールする『交流(集客)の町』等、時代の要請を先取りした様々な旗印(看板)に現われている。6期24年の郷田町政4)は『目先の住民ニーズよりむしろトレンド(方向・近未来像)を示すこと』5)にあり、実に<したたかな>地域づくりを展開する。
しかし、〔観光客を集客すること、そのために観光施設と言われるものを整備することが綾町の目指すまちづくりの目的ではない〕と言う6)。最終的な目標は、あくまでもその地域の人々の生活、文化を愛する心を充実することであり、それは地域外からの来訪者との交流によって生まれるものと考えている。『人に喜ばれ人が集まってくる町をつくるには、まず町の住民が愉しくなければならない。毎日の生活がいきいきしていなければならない7)』−それこそが綾町が今でも取組んでいる<集客のための地域づくりの極意>であると考えられる。 →トップ
A始動時期の特徴
「25%農業8)」という地勢・産業の悪条件を克服することで「夜逃げの町」を変えることが綾町の地域づくりの原点である。
郷田(前)町長が就任した当時、国有林の伐採計画が推進されようとしており、「本物」を大切にしようとしていた町長にとってはこの計画を阻止することが最大の政治的・行政的課題となった。伐採計画阻止運動の過程を通じて、「文明社会・高度工業社会の歪から、必ず求められるであろう近未来の町へのシフトを敷く地域づくり9)」が始まる。
具体的には、伐採計画の対象となった地区を「日本一の照葉樹林」と称して地域のシンボルとするとともに、<使い捨てが反省され近い将来には手づくり商品がクローズアップされる>と考えて、地域住民に対して「一坪菜園運動・一戸一品運動」という生活文化、手づくり文化を推奨する。
さらには、その発表の場や販売の機会を創出し、地域住民のやる気を生み出す仕組みを充実する。同様に、<健康を買う時代がくる>との考えから、自然のままの健康な野菜づくりをすすめる「有機農業のまちづくり」を展開している。
『知恵なんていうのは困ったときじゃないと出てこない10)』と町長は述懐しているが、自らの知恵(思考)でスタートした地域づくりに慢心することなく、絶えず外部の目から地域を評価するとともに、外部ブレインの登用や中央とのパイプづくり11)、サミット等による自治体交流を通じて、より幅広い知恵あつめを展開している。
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B集客のための商品の特徴
集客型地域としての綾町の商品の基本は『本物』である。その発想は、『比較異』という発想12)に基づく。
これといった特徴のない地域が他所と競争しようとするためには、他所にはないものすなわち『本物』をつくる以外にはないという考えである。この考え方によって誕生した商品が、『(日本初の戦国初期山城の再現)綾城』『綾国際クラフトの城・綾城』『手づくりほんものセンター』『(世界一の)照葉大吊り橋』『馬事公苑』『「水の郷・綾」酒泉の杜(酒のテーマパーク)』『スポーツキャンプ』等である。
これらの施設整備は着実に集客を現実のものとし地域をアピールした。しかしながら、綾町が標榜する地域づくりは、単に施設整備にとどまるものではない。「施設(観光資源)」はあくまでも集客を図るための手段とし、地域づくりの目標は「施設整備により人を集め、わが町を知ってもらう。そしてわが町の産業を振興し、さらには本物の手づくりの里という“我がまち”をつくっていく13)」ということにおいている。
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C継続的取組みの特徴
『綾町では計画した観光スポットも整備され、「人の住めない町」から「大勢の人(年間120万人)が来てくださる町」へと変身した14)』と(前)町長は振り返っている。
綾町の地域づくりは、集客のための施設整備は後発のものであり、あくまで<地域住民の心の躍動→来訪者との交流→地域住民への定着(全員参加のまちづくり)>を基本としており、「地域住民が暮らして愉しいまちをつくること」を最終的な地域づくりの目標においている。そしてこれからの綾町は「心で接するまちづくり」の展開により、特に<グリーンツーリズム>を地域づくりの核とする地域づくりに期待を寄せている。 →トップ
[参考文献]
@郷田實(1988)『結いの心〜綾の町づくりはなぜ成功したか』、ビジネス社
A郷田・前田(1986)『宮崎県綾町にみる「村おこし、産業振興と観光事業」』
月刊観光86/9<P3〜14>、(社)日本観光協会
B歌津諸兄(1988)
『有機農業の町と体験農園〜自然生態系農業の町と土からの文化農園〜』
月刊観光88/11<P24〜27>、(社)日本観光協会
C亀地宏(1984)『ひむら邑』、むらおこしルネッサンス<P177〜182>、ぎょうせい
D月刊観光編集部(1989)『綾国際クラフトの城・「手づくりの里」のシンボルとして』
月刊観光89/4<P30〜35>、(社)日本観光協会
E古野雅美(1992)『照葉樹林と有機野菜を育てる〜大自然を生かし本物を作る町』
農村は挑戦する<P254〜263>、現代書林
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[注釈]
1)文献@(P12)。
2)文献@(P102)。
3)みんなで加勢しあうことを当地では「結い」といっている。しかし高度成長とともに町民の生活の中に「自治の心」「結いの心」が失われ始めてきた。このことは<町をあげての・・・>という行動を希薄なものとしてしまっていた。「農村の中にあった<結いの心>を継承し復活すれば、綾には日本どころか世界から人が集まってくる町になる」と(前)町長は考えていた(文献@のP65、P74〜75)。 →トップ
4)郷田町長は、町助役を3期(12年)勤めた後、1966年(昭和41年)町長に就任、1990年(平成2年)に退任するまで、6期(24年)町長を務めている。 →トップ
5)文献@(P39)。郷田(前)町長は、町長時代の思考を振り返り、@自分の町をよく知り「愛する」ことの大切さの展開、Aこれから何が求められるかの思考(トレンドを見定める)、B恐れずに提案を実行すること、の3つのことを実施してきたとしている(文献@(P60〜61))。 →トップ
6)文献A(P6)。
7)文献@(P181)。つづけて、『(観光の語源となっている地域の光とは)最終的にはその地域の人々の生活、文化を愛する目の輝きだと思う。いくら美しい観光資源があっても、住む人々の目が輝いていなければ、その地域は本当の観光地とはなれない。何故なら、これから訪れる人の求めるものは「物から心」と言われる「心」にある。その心とは文化を求め、文化を交流しあう心である』と言う。 →トップ
8)一戸当たりの農地面積は宮崎県の平均の半分。さらに川が荒れるため米の収穫量も半分しかない。すなわち、余所と比べると「25%農業」である(文献A(P4))。 →トップ
9)文献@(P3)
10)文献A(P4)
11)外部ブレインとして前田豪氏、また陳情に行った先の役人とのパイプも太くなればブレインになる。すなわち、国の役人からは「金(補助)」だけでなく「情報」も入手できると言う(文献A、特にP12)。 →トップ
12)『比較異』とは、よその町と比較して異なるものを町づくりの核にしようということ。そのためには、地域を隈なく見る必要があり、『都市を背にして綾を見ること』が何よりも重要となる。この比較異の発想により誕生したものが、「綾城」であり、「照葉吊り橋」「馬事公苑」等である(文献@P51とP140) →トップ
13)文献A(P6)。また文献@にも『自然を大切にし、その中で生活文化を楽しむ交流の町を綾の未来図とした。健康な農業を営み、憩いを提供することで、多くの人々が「いい町だ」と訪れてくれるような町である(文献@P88)』とある。 →トップ
14)文献@(P229)。
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