株式会社 プランニングネットワーク

(16)広島県瀬戸田町
〜“文化”をキーワードとする味つけによる集客型地域づくり
@概況ときっかけ

A始動時期の特徴

B集客商品の特徴

C継続的取組み

D参考文献

E地域づくり年表

F来訪者データ

@地域の概況と地域づくりのきっかけ

 
瀬戸田町は、瀬戸内海の芸予諸島に位置し、本四連絡橋の西瀬戸自動車道(尾道・今治ルート)が通る生口島の大部分と高根島からなる。瀬戸田町には「西の日光1)」とも呼ばれる耕三寺があり、ピークの1973(昭和48)年には100万人以上の観光客を集客していた。しかし年を追って客足は落ち込むとともに、四国観光の立寄りの一つとなる等、観光による経済効果も減少の一途をたどる。また1981(昭和56)年には、生口橋が架橋され本州とつながったことから離島振興法の適用から外さることとなった。
 さらに、周りの島々ではリゾート法の地域指定を巡り、民間企業を中核とする大規模リゾート構想2)が進められ、各自治体も<バスに乗り遅れるな>という横並び意識からリゾート開発へと傾きはじめた。これは瀬戸田の観光客がピーク時の3分の1に落ち込む時期と符合する。このような社会的状況の中で、瀬戸田町では、「耕三寺意外に人を呼ぶ資源をどうつくるか」「滞在型の客をどうやって呼ぶか」3)という地域課題への対処が急務となる。
 瀬戸田町のまちづくり戦略は、〔人を呼ぶこと〕を目標とし、『文化の雰囲気づくり』を手段としている。しかも団体バスによる立寄客ではなく、瀬戸田を目的とするこれまでにない客層を新たに呼ぶことに固執する4)

 リーダーとしての町長の思考は、『都市機能が強化されれば都市住民は豊かな空間を求める。「ただ美しい自然がある」という環境に加えて、文化の香りがあると人は集まる5)』ことを基本としており、文化をキーワードとする集客を目指したまちづくりを積極的に展開する。それが、「本格的な音楽ホール<ベルカントホール>」「ビエンナーレという文化戦略」「平山郁夫美術館」である。また、地域特性を活かして「サンセットビーチ」「シトラスパーク(柑橘公園)」等の集客型の施設も順次整備していく。  →トップ

A始動時期の特徴

 
和気(前)町長が就任した当時の瀬戸田町は、ミカンと造船と観光の産業三本柱が低迷しており、島の人口も横ばいから減少傾向にあった。「ディスカバージャパン」をキャッチフレーズとした旅行ブームの中、瀬戸田観光は減少の一途を辿り、<何とかしなければ>という危機意識が生まれはじめていた。この危機感を共有しつつ商品開発することから瀬戸田町の素地づくりが始まる。
 新しく商品づくりを行うにあたって地域の文化遺産を大切にするとよく言われるが、瀬戸田町では『遺産は何も過去のものだけではない。後世から評価されるような資産を自分達が残す、という気概があってもいい。我々が今つくりだす6)』という志向をとる。そして『文化の香りのする島7)』を将来方向と見定め、他に類を見ない新しい商品づくりを実現し、それをパブリシティ8) にのせて知名度を高めさせる。これは瀬戸田からの情報発信であり、瀬戸田の名を際立たせる効果を生み、結果として住民のプライドの向上、まちづくりの理解へとつなげている9)。  →トップ


B集客のための商品の特徴

 
瀬戸田町の商品づくりの基本戦略は、「古い資源を掘り起こすこと」と同時に「新しい資源を作りあげること」である。

 「瀬戸内海の気候」「豊かな自然・海」等は地域の古くからの地域資源である。またミカンの里や平山郁夫の出身地も個々には地域を代表する資源である。それらを素材としつつ、瀬戸田町では『文化』というキーワードから味付けを行い、まったく新しい集客施設を次々と作り上げたものと考えられる。

 瀬戸田の文化戦略は「音楽(ホール)」からスタートし、「現代的な環境アート(彫刻)」、そして「日本画(美術館)」へとつながる。

 また、若者を集客するための施設として整備されたサンセットビーチも、町の接待(迎賓)処として利活用できるような環境整備10) に心がけ、シトラスパークもまた単なる観光ミカン園ではなく文化的な資産として柑橘類を見なおすこと11)を目指している。これらの施設づくりの戦略から、いずれも瀬戸田ならではの「文化へのこだわり」を見て取れる。
 この文化へのこだわりは、多目的利用ができる「中央公民館」が形を変えて誕生した『ベルカントホール12)』がきっかけとなり、平山郁夫画伯を生んだ島の環境13)から『文化』というキーワードを導いたものであり、その後この戦略を徹底して追い求める。また、ベルカントホールの運営にあたって、世界的一流演奏家を誘致できたことから、その後は『一流を目指す14)』 という戦略を加える。
 これらの一連の施設づくりの結果、観光客の減少は止まり、1986(昭和61)年には増加に転じ、かつての水準に達してきつつある。しかも客層はかつてのように団体通過客ばかりでなく、瀬戸田を目的とする目的客も増加15) しつつある。  
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C継続的取組みの特徴

 
瀬戸田町の継続・発展の取組みの中で重要視されるものは、「極端に外向きに偏らず、まず第一に住民のことを考えること」の志向にある。「交流者」を新たな地域づくりの戦略として据えている自治体では、一見「外向き」に偏重するきらいがある。しかし瀬戸田町では、<地域住民が文化的香りを享受できること>、<地域住民がワクワクできること>を基本においており、また「人の縁」をキーワードとする真の交流を実現しようとしている。地域の人々が楽しんでいれば、地域全体として「もてなしの心」と「気配り」が展開され、結果としてリピータ確保につながると考えているものと見られる。
一度にすべてを見せるのではなく、徐々に魅力を高める方策もまた、継続・発展のために効果をもつ。瀬戸田ビエンナーレはその好例であり、イベントして開催した作品を常設し、また地域の中に点在させることにより、文化・芸術資源をストックさせるとともに、来訪者の行動範囲の拡大を狙った見事な戦略であると感心させられる。
平成11年には西瀬戸自動車道(尾道・今治ルート)が全線開通する。これは、交通条件が極めて向上する反面、一方ではストロー現象を生じさせることが懸念され、今後、瀬戸田町がこれまでの集客型地域づくりの実績を生かし、どのような戦略でしたたかな地域づくりを進めるかが興味深い。 →トップ

 

 

[参考文献]

@石田信夫(1994)

  『潮騒とクラシックと〜突撃町長<広島県瀬戸田町>のまちづくり』、ぎょうせい
A萬所象治(1996)『文化の薫る町づくり〜ベルカントホール』

   シリーズ 地域の活力と魅力D“感動” P163〜P170 ぎょうせい

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[注釈]

1)「耕三寺」は、大阪で事業に成功した町出身者の金本耕三氏が母の菩提を弔うために昭和11年から30年かけて造営した伽藍であり、呼び物は、日光東照宮の陽明門を原寸大で復元した考養門である。そこから「西の日光」とも呼ばれるものとなった(文献@(P55))。 →トップ
2)文献@のP104〜107をもとに取りまとめると次のとおりである。

 ○因島 『土生港マリン・タウン・プロジェクト』(日立造船等)
  →マリーナ、ホテル、クルージングターミナル   等
  →ゴルフ場、マリーナ・ホテル、マリーナ・乗馬場 等 日立造船等
 ○弓削島 『アイランド21構想』(神戸市のファッションメーカー)
  →二つの島にまたがたゴルフ場開発とホテル、マリーナ、植物園等 

 ○伯方島 『沖浦エーゲビーチ』
  →水軍テーマパーク、ゴルフ場、ホテル、マリーナ 極洋、サイトリー等
 ○大三島 『ラ・メール・リゾート』(今治市のタオルメーカー、住友銀行)
  →水族館、植物園、ホテル 等 

 ○大島 『西瀬戸ハイウェイリゾート新マスタープラン』(神戸製鋼、新日鉄)
  →ゴルフ場、シルバーマンション、マリーナ、フィッシャーマンズワーフ等
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3)文献@(P56)。
4)文献@(P121)。若者の流出が顕著であり、若者の定住のためにも「島にサービス産業を創出するしかない。人が集客できればそれを相手にするサービス産業が生まれる可能性がある」と考えている。 →トップ
5)(前)町長は「豊かさ願望の進化論」と言う。つまり、人が求める豊かさは、まずお金であり、それが満たされると時間、そして空間を求めるようになる。田舎(瀬戸田)には優れた自然があり、都市機能が充実すればするほど、その自然を都市住民が求めるものとなる。しかし自然だけでなく、欠かせないのは<人の交わる場の設定>である。訪れた都市の人と地元住民が、あるいは都市の人同士が交わることのできる魅力的な空間が求められ、そこにこそ『文化』の香りが必要と考えている(文献@P123〜P124)。 →トップ
6)文献@(P46)。

7)文献@(P101)。
8)ベルカントホールの運営赤字についても「瀬戸田のイメージを売る経費と考えれば安いもの」と逆転の発想で捉え、赤字補填という後ろ向きのものではなく『瀬戸田のパブリシティ費用』と積極的に位置づけている(文献@(P28とP32))。 →トップ

9)文献@(P152とP42)。

10)「ビーチは海水浴だけでなく、町の接待処としてよく使われる。客は、瀬戸田の海と空と味を満喫し、町は町で接待費を安上がりで済ますことができ、開発公社は売上を伸ばすことにつながる」という(文献@(P86〜P88)。 →トップ
11)文献@(P130)。
12)昭和57年頃、中央公民館に多目的ホールをつくろうという計画を持っていた。その際、「漁村計画研究所」の所長が「多目的は無目的になりやすい。完成後に多目的に使うのは良いが、つくる時にはホールの性格づけをはっきりさせておく方がよい」と指摘。当時ちょうどオープンした「バッハホール(宮城県中新田町)」を意識し、特徴ある専門性の高い施設へと方向転換された(文献@(P10〜P12))。 →トップ
13)「平山郁夫先生は、自分を育ててくれたのはこの島の環境である」という(文献@(P24))。また、外から瀬戸田を訪れた人は、島の現代アートを見て「さすが平山郁夫さんの出身地。町民は芸術に関心が高いのであろう」と関心されるという(文献@(P149))。 →トップ

14)ベルカントホールでは「ベルカントホールシリーズ」と称して外国の一流演奏家を年に数回読んでいる。また、現代美術の世界では名の知れた立体作家や評論家が「せとだビエンナーレ」に参加し、これまで17作品が設置されている。 →トップ

15)1997(平成9)年4月に開館した平山郁夫美術館は5月の連休に7766人という一日最高記録を達成し、7月には12万人という年間目標を突破している。また客層は女性が多く、友達連れや個人客であり、ゆったりとした旅を楽しむ人々であるという(文献@(P234))。また、サンセットビーチには年間20万人が来訪し、ビーチを管理している開発公社の平成4年度の売上は1億4千万円に上ると試算されている(文献@(P52〜P53))。 →トップ

 

 

 

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