@地域の概況と地域づくりのきっかけ
足助町は、豊田市と至近距離(車で30分)にあることから、現在は、就業人口の3分の2がトヨタ自動車関連会社に勤める「都市近郊通勤山村」となっている。しかしその昔は、尾張・三河と美濃・信州を結ぶ「塩の道」として、人と物資の往来する交通の要衝として栄えた。当時馬が往来した道を「中馬街道」と称し、街道沿いの町の中心部には江戸時代後期から、明治・大正・昭和の初期につくられた古い家並みが続いている。
足助町の本格的な地域づくりは、1970(昭和45)年の「過疎地域の指定」からはじまる。1970年代の我が国は、ディスカバージャパンに代表される「観光ブーム」であったが、足助のまちづくりは流行の安易なレジャー開発を志向せず、<地域に誇れるものをきちんと自分達で主張できるような形で守り続けることが重要1)>との考えのもと、都市に迎合した地域開発を否定し、独自の地域づくりを展開することとした。
山の生活を伝える生きた博物館としての『三州足助屋敷』、中心部の『町並み保存』、さらに観光と福祉と物産とが融合した『百年草』、地域のシンボルとしての『足助城』等、数々の施設が生まれ、地元住民の生活と共存した「集客型の地域(交流観光)」への途を確実に進んでいる。
山里に大きなロマンを追求した『あすけロマン(第2次足助町総合計画:1984年)』から、交流重視型のまちづくりを目指した『足助シャングリラ−理想郷(第3次足助町総合計画:1996年)』への移行は、四半世紀の地域づくりの実績を着実に行政政策に位置づけ、さらなる「集客型の地域(交流観光)づくり」への途を展開しようとしている姿をそこに見ることができる。 →トップ
A始動時期の特徴
都市迎合型の地域づくりではなく<地域の誇り>を活かした地域づくりは、『保全を開発と信じる町・足助』という地域づくりのキーワードから進められる。キーワードに見られる精神が「足助の町並みを守る会」の発足につながり、町並み保存運動、町並み景観運動へと展開される。また、第1回の「全国町並みゼミ」を足助町で開催、100人を超える学者、建築家、コンサルタント、マスコミ関係者が訪れ、参加者との交流の中から様々な智恵を得る。ここでの人材ネットワーク2)が、足助の第一の集客施設と考えられる「三州足助屋敷」の構想を形づくるにあたっての応援団となる。
また、地域住民に対しては、移動役場や地区懇談会(フォラソン)等を継続して開催し、行政の考える地域づくり(思いや提案)をアピールし、理解と協力を求めている。交流重視の地域づくりを進める行政にとって、「全国的に産業空洞化が進む中で、企業や工場の誘致は厳しい状況にあり、起業家精神のある人を支援して地域内の新しいビジネスを展開すること3)」の考えをより広く理解し、参加してもらうことへの期待も、この移動役場や地区懇談会の取組みの中に見ることができる。
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B集客のための商品の特徴
足助町の商品は、流行に偏重せず独自の地域づくりを志向するものであり、『三州足助屋敷』と『町並み保存』を第1弾の商品として、第2弾が『百年草(福祉・観光・物産の複合施設)』、そして第3弾が『足助城(地域のシンボル)』と、次々と独自の商品化を展開している。これらはいずれも、伝統・文化・山里生活等の地域資源を活用しつつ、「地域の誇り」と「高齢者の生きがい」を一貫したテーマとして商品化したものであり、単なる観光施設とは様相を異にする。
このうち『三州足助屋敷』の場合、鍛冶屋、炭焼き、紙漉き等の地域の中で手仕事が実際に行われている業種を選択し、古い民家の移築や当時を髣髴させる施設の整備等によって「生きた博物館」として山の生活を伝えている。また施設内では、技術を持った高齢者達が誇りをもって働き、その技術を次代へ伝える拠点施設と位置づける等、地域の誇りと高齢者の生きがい(生涯現役)を施設整備のテーマとしている。また、『百年層』は、「福祉」と「観光(交流)」と「物産」をコンセプトとした複合的交流拠点であり、地域の高齢者のための福祉センターに、「ハム工房(ZIZI工房)」と「パン工房(バーバラはうす)」4)とを併設、高齢者を雇用して<生きがいづくり>を展開するとともに、地域の特産品化(足助ブランド)を図っている。
これらの施設整備はあくまで地域住民を主眼にしつつ、その仕事の様子を新たな観光資源として創出するとともに、交流者向け施設としてレストランやホテルも一ヶ所に集積立地させている。 →トップ
C継続的取組みの特徴
足助町の地域づくりは、地域住民が「郷土への誇り」と「夢(ロマン)」を持てるように取組んでいるものであり、「交流人口」はあくまでも手段としていること5)が、足助町の総合計画からも読み取れる。また、国土庁や建設省、建築学会、サントリー文化賞等からまちづくりの実践の評価を受け6)、これらの授賞を糧に、これまでの数々の地域づくりの取組みをさらに地域で共有するために、「交流観光の推進」「交流重視型産業の創出(起業家精神の醸成)」等を目指している。
さらに、地域づくりは「人づくり」であるとの考えのもと、21世紀の足助の観光を考える団体として「AT21倶楽部」を組織化、「アット21通信」や「トピックス足助」等の地域ミニコミ誌等を定期的に発刊し、地域住民への継続したアピールに心掛けている。
これまでにも示したように、足助町では「智恵が生みだした交流の魅力」を地域づくりの貴重な手段と認識しているとはいうものの、これまでの地域づくりは地域住民に主眼を置き、定住人口と交流人口とが共生する中で地域の活力を維持・向上させてきたものであり、その手法は今後とも地域に根付いて展開されるものと見られる。 →トップ
[参考文献]
@青木信行(1996)『「経営」感覚のまちづくり・足助町』、造景 No.5 P38〜P47
A足助町(1996) 『第三次足助町総合計画<足助シャングリラ計画−1996→2005>』
B晨編集部(1995)『高齢者たちが作るパン工房「バーバラはうす」』
月刊晨1995年11月号<口絵>、ぎょうせい
C小沢庄一(1982)『足助の町づくり』、月刊観光1982年1月号<P10〜14>、(社)日本観光協会
D小沢庄一(1983)『老人パワーの活用と伝統文化の復活』
月刊観光1983年9月号<P35〜38>、(社)日本観光協会
E月刊観光編集部(1983)『いきいきづくり−活力ある観光地とは』
月刊観光1983年10月号<P25〜39>、(社)日本観光協会
F月刊観光編集部(1984)『足助の町並み保存』
月刊観光1984年10月号<P43〜47>、(社)日本観光協会
G矢澤長介(1991)『足助屋敷年寄り物語』
月刊観光1991年8月号<P36〜39>、(社)日本観光協会
H矢澤長介(1989)『三州足助屋敷の経営を考える』
月刊観光1989年2月号<P21〜26>、(社)日本観光協会
I千葉安明(1996)『足助ハムZiZi工房・パン工房バーバラはうす』
地域の活力と魅力B「味わい」<P117〜122>、ぎょうせい
J縄手雅守(1997)『ヒトもモノも奥が深い山里は実に楽し』
観光文化No121号<P2〜8>、(財)日本交通公社
K間瀬寿夫(1995)『生涯現役が輝く町』
輝く人・きらめくまち<P142〜151>、KTC中央出版
L晨編集部(1994)『福祉・観光・物産の総合拠点』
月刊晨1994年5月号<P22〜23>、ぎょうせい
M浅野恭平(1993)『囲炉裏の復活が「生きた博物館」の原点』
いなかの挑戦<P184〜200>、実務教育出版
Nサライ編集部(1995)『足助町−中継交易の富が蔵に』
「蔵の町」をゆく<P80〜87>、小学館
O高橋 徹(1980)『足助−近世の往還道、町並み、足助屋敷』
歴史の町なみ−関東・中部・北陸編<P106〜110>、NHKブックス
Pまちづくり編集部(1990)『歴史を遡るまちづくり−足助町の試み』
TheまちづくりView No7<口絵>、第一法規
Q足助町緑の村協会(1990)『上州足助屋敷の10年』、足助町
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[注釈]
1)文献@(P38)。
2)「1977(昭和52)年、第1回全国町並みゼミが足助町と、有松(名古屋氏鳴海町)で開催された。全国から、学者、建築家、コンサルタント、マスコミ等々100余名が足助を訪れ、今後の足助のまちづくりに与えた影響は大きかった。こうした運動が、1980(昭和55)年4月に開館した三州足助屋敷の布石になったことも見逃せない」(文献@P39)。〔文献@〕によると、三州足助屋敷の構想の実現に欠かせないものとして町並み保存があるとし、その町並み保存と先の全国町並みゼミとの係わりについて次のように記している。
「第1回町並みゼミで知り合った渡辺建築設計事務所の会長を始め、若い建築設計者の助言、指導に負うところが大である。彼らは、倉敷の保存的再生(アイビースクエア)を企てるなど建築界ではよく知られている」(文献@P40)。 →トップ
3)『第三次足助町総合計画』では、足助町の主要課題と対応の方向として、@人口減少と高齢化に適切な手を打つ、A交流重視型の産業を展開する、B豊かに暮らせる生活基盤を整える、C環境と調和した計画的な土地利用を進める、D町民と行政のパートナーシップを育てるの5つを示している。「交流重視型産業」の項の中で、「地元住民の生活と共存できる、住民との交流を重視した「交流観光」を進めるとし、小規模な産業に新たに取組む、起業家精神のある人たちを支援し、産業を起こしやすい環境を整備する」としている(文献AP27)。 →トップ
4)1990(平成2)年にオープンした高齢者福祉センター『百年草』にまず、ハムやサーセージなどを作る「ZiZi工房」が併設された。1995(平成7)年8月、新たに女性高齢者を中心に、町営パン工房「バーバラはうす」が開店。「じじ」とカップルの「ばば」の名称を用いネーミングの妙でアピールしている。しかし業種選定の背景には、好評のハムとの組み合わせがよく、施設内の喫茶店で出せるものとの考えから「パン工房」とする等の計画的店舗経営を心掛けている(文献B)。 →トップ
5)文献A(P27)。
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